<ハロプロ楽曲大賞10周年記念 ハロプロシングル大全集!! 1997-2010>投票内容

http://www.esrp2.jp/hpma/10th
「1アーティスト/1名義につき1曲まで」、「順位は付けない(すべて2pts)」という縛りで選びました。


第1位(2pts) モーニング娘。笑顔YESヌード
自分が知ってるハロプロ楽曲の中では一番踊れる曲だと思います。今年の夏ハロコンで初めて生で観ることができたので狂喜して踊りまくりました。隣の席の人すいませんでした。


第2位(2pts) 松浦亜弥「LOVE涙色」
「ドッキドキ! LOVEメール」と迷ったけど、日本の歌謡曲史に残る(残れ!)のはこっちだと思うので。


第3位(2pts) ℃-ute大きな愛でもてなして
まっさらブルージーンズ」もそうだけど、いい意味で「変な」曲。「な〜き〜そ〜お〜よ〜」から急展開して多幸感満点のサビに至るところが最高。


第4位(2pts) Buono!「恋愛♥ライダー」
イントロのギターリフだけですべて持っていかれる。アイ・キャント・エクスプレイン。


第5位(2pts) 真野恵里菜「はじめての経験」
初期真野ちゃんの歌声/歌唱が大好きです。この曲は、ユルい打ち込み、少し変な歌詞、真野ちゃんの朴訥とした拙い歌、が三位一体となり魔法のような飛翔感を生んでいます。



今回のノミネート曲リストを見て気付いたのは、世間的な「黄金期」と自分がハロプロを追い始める時期との間の、自分にとっていわば「空白の期間」のハロプロって、完全にテレ東深夜に流れてるPVやCMのイメージしかない、ということでした。テレ東は偉大。

ハロプロ以外の現行主要グループアイドルについての雑感

ハロプロびいき(ℂbayfm78「ON8」)の人間が少ない知識をもとに書いています。各アイドルのファンの方は不快に感じる記述があるかもしれません。

注目度75(最高値は100。以下同じ)。そこまで叩かれなくてもいいと思う。ちゃんと可愛い子がいるし、ビジュアル/メディア展開は巧みだし、冠番組もどれもよくできているし、一般人に対する訴求力はやはり群を抜いている。何より王道のベタなアイドルが今日でもなお世間一般にここまで受け入れられることを証明したという点で偉大な存在だと思う。ただ、潤沢な資本があるのだから楽曲がもっと良くならないか。

注目度75。強く惹かれるところはないが、好感を持っている。いいなと思うメンバーもいる。ただ、テレビバラエティ的なノリにあまりに適合してしまうと、(面白い/面白くないは別として)自分の中でアイドルとして見られなくなってしまう。

注目度80。今は非常に語りづらい存在なのかもしれない。一時期は自分もハマりかけていたが、ブレイク以降のサブカルメディア/業界人との蜜月っぷり(これを「サブカル・スポイル」と言う)や*1、バックにいる大人たちの「これ面白いでしょ?」な雰囲気が過剰に見えすぎる感じなど、急速に自分の中でどうでもいい存在になりつつある。今後はどんどんビッグになってアイドルの地位を上げてくれれば、と思う。楽曲的には依然として最重要アイドル。

注目度90。いま最も気になる。曲は当然いいし、パフォーマンスはパワフルだし、メンバーのキャラも立っているし、みんなローティーンだし、全体的に非常に楽しい。ももクロ同様プロデュース側の「どや?」が見え過ぎる点は心配だが、いまはまだ普通に楽しめるレベル。

注目度75。好きでも嫌いでもない。あまり自分の趣味とは重ならない。ライブを見たことがあるが、パフォーマンスが達者で、曲もしっかりしていると思った。

  • SUPER☆GiRLS

注目度75。好きでも嫌いでもない。メンバーのルックスがいい、ヲタの年齢層が若くて元気、という印象。AKBやハロプロ同様の王道路線なので自分にはあまりハマりどころはないかもしれない。

注目度85。好き。自分の趣味とも合う。非常に丁寧にプロデュースされているのが感じられ、好感が持てる。オシャレで洗練された部分とベタなアイドルの部分がバランスよく両立している。楽曲が渋すぎてアイドルポップ的な盛り上がり感に欠けるが、それが美点とも。

注目度80。1stアルバムがめちゃくちゃ良かったのと低年齢清純派路線というところで、ハマるかと思われたが、ワンマンを見に行ったらあからさまに口パクだったのと、MCが台本ぽかったことから意外とノレなかった。

注目度70。「有名な人がメンバーにいるのにあまりそれを前面に出していない不思議なグループ」という印象。今年出たシングルはどれも良かった気がする。

注目度55。9nineと同様「有名な人がメンバーにいるのにあまりそれを前面に出していない不思議なグループ」ぐらいの印象しかない。テレビで見た時、一番年下の子の佇まいというか浮いてる感じが面白かった記憶がある。

注目度50。自分の趣味と重ならないのでコメントが難しい。ライブを少し見たことがあるが意外と(失礼)パフォーマンスがしっかりしていて格好良かった。

注目度測定不能。よく知らないのでコメント不能

注目度60。確認するまでもないことだが、結果としてサブカルな磁場に吸い寄せられたももクロと違い、スタートから一貫してサブカルなところにいる人たち。このエントリで名前を挙げているアイドルと同じ土俵にいないし、個人的にもあまり興味はない。

  • Tomato n' Pine

注目度70。「小池唯ちゃん可愛い」という印象。楽曲や音楽性が評判のようだが、自分はそこまでいいとは思えなかった。オシャレコンプレックスでは?

  • 制服向上委員会

注目度85。好き。同時代的感覚を完全に排除し、異形の世界像を構築している孤高の存在ではないか。自分のエスケープ欲求を満たしてくれる。

  • AKBN 0

注目度75。面白いと思うけど、継続して追いかけようというほどではない。売り上げ至上主義というスタンスや売買春的な手法など、アイドルをめぐる制度のシビアな部分をパロディ化するようなメタな試みを行っている。しかしライブに行って会場の熱心なAKBN 0ヲタたちを見ていると、そのような一連の試みもヲタの愛着をベタにドライブしているように見えた。

注目度55。ハロプロの姉妹的存在なので嫌いになりようがないが、正直よく知らない。ちょっとしたアイドルブームの現在でも全く自分の視界に入ってこないので心配になる。

*1:自分も完全に「サブカル趣味」の人間なのでこれは同族嫌悪だ。しかし自分の中で重要なのは、ハロプロは、少なくともオフィシャルなコンテンツとして表出している部分では、サブカル的な磁場やネット的シニシズムからかなり隔たったものとしてある、という点だ。

映画『キサラギ』から<アイドル>を考える

キサラギ』という日本映画を観ました。基本的にはウェルメイドなエンタテインメント作品でしたが、自分にとってはアイドル現象の特異性、また、アイドルとファンの関係などについて考える上での材料になるような内容でした。ということで、この映画を観て考えたことを書いてみます。(以下ネタバレ含む。)


【あらすじ】
焼身自殺したアイドル如月ミキの一周忌として、ファンサイトの掲示板をきっかけに一堂に会した5人の熱狂的なファン。如月の思い出に浸る平和なオフ会になると思われた追悼会は、ある出席者の切り出しをきっかけに、彼女の死の真相をめぐる推理劇になっていく。紆余曲折の推理、激論の末に5人はある結論にたどり着く……。


前にも書きましたが、これは印象や実感の話として、ファンにとってアイドルとは常にどこか謎めいた存在、真実を知りたいと願ってもたどり着けない存在として経験されるように思います。『キサラギ』は、このようなアイドルをめぐる到達不可能性、「謎」性を、自死の真相をめぐる謎解きミステリーという形式として描きだした作品として観ることができます。如月ミキの死の真相や彼女の内面をめぐって5人が激論し、断片的な彼女の記憶や情報に翻弄される姿というのはアイドルに対してファンが抱く謎めいた印象、実像への到達不可能性が表現されているかのようです。
物語の中で5人は死の真相をめぐる推理の材料として様々な情報、つまり如月ミキの「断片」を提示し、推理を展開します。ここには、ファンがアイドルという存在をどのように消費するかという様態が象徴的に表れているように思います。というのも、ファンによるアイドルの消費の仕方とは、常に各種のメディアに散らばった断片的な情報やコンテンツを収集するようなものだからです。これは映画や小説、マンガ、アニメといった他のポピュラー文化の諸ジャンルと比べるとわかりやすいのですが、アイドルには一つの決定的/固定的な作品や原テクストが存在せず、完結性や全体性を持ちえない。斧屋氏(id:onoya)はアイドル消費のこのような側面を、生身の身体を持った複製不可能な「存在」を消費することとして位置づけ、アイドル消費において「作品」と同等に特権視されるものとしてライブやイベントなどの一回性を持った「体験」を挙げています*1
私たちがアイドルを受容することとは、各種の媒体に登場したアイドルという存在の「断片」を消費することです。コンサート、握手会などのイベント、CDやDVD、写真集、そのどれもがアイドルの全体性を示すことのない断片的なものにすぎません。アイドルという存在はその断片によってファン一人ひとりの中で構成されるのです。
このようなアイドル消費の断片集積性は、インターネットが普及し、ウェブがアイドル消費の主要な舞台として台頭して以降さらに強まっています。ウェブ上に散らばる無数の画像や動画、音源の収集、また掲示板やSNS等のソーシャルサービスでやり取りされる無数の言説によって紡ぎだされる集合知的アイドル像――これがウェブ時代のアイドル消費の姿です。仮にこの物語が、オフ会という場ではなくオンライン上を舞台にしていたら、今日的でラディカルな別種の作品になったのではないかと思います。
物語の中で5人は延々と如月の死の真相ひいては彼女の実像をめぐって議論を戦わせあらぬ限りの情報/断片を持ち寄ります。しかし、如月ミキ当人が物言わぬ死者であるがゆえに彼らの議論は、決定的な真実を欠いたまま一向に収束を見せません*2。この映画には如月ミキ当人は登場しません*3。それゆえ私たちは彼らの語りを通してしか、不在の如月ミキというアイドルのことを知りえない。彼らの語りによってのみ、観る者の中で如月ミキというアイドルが構成されて行くわけです。
この、語りの対象である本人が不在であること、言い換えれば、当人が何も語ってくれないこと、という条件はアイドルという現象について考える上でのもう一つの問題を浮き彫りにします。
この物語の中で彼女が不在であることは、真実を語る者がいないことを意味します。そして、アイドルとは決して真実を語らない存在です。確かに、私たちが消費するアイドルは、(多くの場合)如月ミキのような死者ではない。しかし、真実や本心を語らない、語ることができない存在であるという意味ではある種の不在感を孕んだ存在なのです。そして、真実や本心が提示されないがゆえに、ファンはアイドルをめぐって終わりない語りを繰り広げることになります。
如月ミキはもう真実は語ってくれない。しかし物語の終盤で5人はこの推理劇を決着させる結論、つまり彼らなりの「真実」にたどりつきます。その結論は、如月ミキの死は自殺ではなく事故死であり、彼女は苦悩していたわけではなく幸福なアイドルだった、というものです。この結論に達した5人の晴れやかな表情と幸福なムードの中、映画は終わります。
映画の演出を観る限り、この結末に多義的な色合いを読み取ることはできません。しかし、観る人によってはこの「ハッピーエンディング」に欺瞞やアンビバレンスを読み取るでしょう。すなわち、彼らはファンである自分たちの都合のいいように解釈しているだけではないのか、と。この指摘は一種の深読みであり、エンタテインメントとしてつくられたであろう本作の完成度に対する批判としてはあまり有効ではないと思われます。しかしこの物語をアイドルという現象について考える上での材料として観た場合、ここに一つの問題を読み取らざるをえません。
その問題を要約すると以下のようになります。この結末にはファン(や事務所など)の身勝手な自己満足が表れており、そのような身勝手さによって半ば無意識的にアイドルの主体性や内面が抑圧されている。このような抑圧構造を隠ぺいしたところにこの物語の「感動」がある――。ここで参照したいのが、大塚英志岡田有希子の自殺について寄せた論考*4です。大塚はこの論考の中で、アイドルをめぐる語りがもっぱら男の側のものであり、その語りはアイドルを「情報」化するとし、「情報」化に晒されたアイドルはそれに抗する言葉を持たないため、彼女たちの生身の身体は引き裂かれるという批判的な議論を展開します。ここで大塚が問題の根幹として捉える、アイドルが自らを語る言葉を持たないこと、これは『キサラギ』の中で物言わぬ死者として象徴的に提示された、不在のアイドルの姿と重なります。しかし大塚も指摘しているように、ひとたびアイドルが自意識や内面を表出させたらアイドルとしての彼女が成立不可能になってしまう。アイドルは常にファンが想定する像の範疇でしか私たちに現前せず、そのようなお約束、予定調和性によってファンとアイドルとの関係は保たれている。アイドルは、自分が担うキャラクターに自己の身体を順応させることを日々強いられている、と言うことができます。
私は、このような議論は多分に疎外論的なきらいがあると思います。今日の日本社会においては、私たちの日常的な人間関係にまでキャラクターの圧力があるとみなす社会論はすでに説得的なものとして受け入れられ、このような日本社会をいままさに席巻しているAKB48もまたキャラ/キャラクター論の枠組みで分析されている現在、キャラクターの暴力性をことさらアイドルに読み込むのは過剰反応ではないか、とも思います。この問題については、本心が見えない表層的な存在であるからこそファンとアイドルという関係性、ひいてはアイドルという現象そのものが成立しているのだという限界を認めるしかないというここまでの議論を踏まえ、アイドルの内面や主体、自意識の問題はひとまず留保したいと思います。
そのうえで今日的な状況として指摘したいのは、アイドルの多くがブログやツイッターをしている現在では、この物語に描かれているようなファンとアイドルとの間の隔たりやディスコミュニケーション、実像が掴めないアイドルに対して一方的にファンが想像を働かせるという関係性は部分的には失われているということです。アイドルが日々何を考えているか、今日何をしたかということが(そこで紡がれる言葉が大塚言うところの「彼女たちの言葉」であるかどうかはさておき)ブログやツイッターによりある程度知ることができるようになったことは、ファンにとってはおおむね肯定的に捉えられているように思えます。しかし、ブログやツイッターのようなある種の親密性を提供する情報が存在しないがゆえにドライブされるファンの飢餓感や想像力、つまり欲望は一方で失われているのではないでしょうか。だから、『キサラギ』に登場する5人のファンのある過剰さは、ウェブ以前のアイドルファンの姿として、どこか牧歌的に映ります。




キサラギ スタンダード・エディション [DVD]

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「おたく」の精神史 一九八〇年代論

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

*1:斧屋「アイドル論の困難とその意義」『アイドル領域』創刊号、ムスメラウンジ、2009年。http://d.hatena.ne.jp/onoya/20091230/1260457766

*2:ミステリアスな自死を遂げた憧れの女性を追想するという点で同様の主題をもつ映画作品として『ヴァージン・スーサイズ』(監督:ソフィア・コッポラ、1999年、米。)がある。残された男たち(≒ファン)がそれぞれの生前の記憶を持ち寄り彼女たちの実像に迫ろうとするが、それらが断片的な記憶でしかないが故に到達不可能な不全感に陥る彼らの姿が叙情的に描かれており、作品のタイプこそ違えど『キサラギ』と共通する点は多いと言える。

*3:回想シーンにおいてのみ、顔面が隠された静止画で登場する。またエンディングで、イベント会場でパフォーマンスする彼女がやはり顔面が隠されたまま登場する。

*4:大塚英志岡田有希子と「身体なき」アイドル」『「おたく」の精神史――一九八〇年代論』講談社現代新書、2004年。

ハロプロのいない春(にももクロを観る)

震災が起きて以降アイドルのライブやイベントが数多く延期や中止に見舞われましたが、それは当然ハロプロも例外ではありませんでした。しかし、4月も終わりに差し掛かってきた現在では、おおむね予定通りの興行が行われるようになっているようです。私はというと、地震のあったあの日以降まだハロプロの現場に足を運べていません。
自分は被災地に住んでいるわけではないので、東京からやや遠隔地に住んではいるものの、現在は充分現場に行ける環境にあるのですが、年度初めの仕事の忙しさや4月から少し生活環境が変わったこと、またそれ以外にも、極私的なことですが気分が塞ぐようなこともあったりして、単純に現場に行く元気が湧かないのです。また、DVDを観たり関連サイトを巡回したりといった在宅活動にもあまり興が乗りません。
それなりに熱心に続けていたヲタ活動がこうしてぷっつりと途絶えてしまったいま、震災の直接的な影響を自分は大して受けていないにもかかわらず、あの日を境に自分の生活がガラッと変わってしまったような心境にあります。
しかしそんな状況下でもちゃっかりと、4月10日に行われた<ももいろクローバー中野サンプラザ大会 ももクロ春の一大事 〜眩しさの中に君がいた〜>には行ったのです。正直私はももクロのファンというわけではないのですが、運よくチケットが手に入ったので見に行くことができました。熱心なももクロファンでこのコンサートを見られなかった人も多かったろうに、私なんぞが見ていいのだろうかという後ろめたさも若干感じつつ。ももクロといえばこの数ヶ月で急速にメディアから大きく取り上げられるようになった感もあり、非常な注目を集めるなか行われる今回のコンサート、しかもメンバーの早見あかりさんのラストステージということで、一体どんなものが見られるのかと、極めてミーハーな姿勢で臨みました。
感想ですが、まず自分にはハロプロとのテイストの違いみたいなものにやはり目が行きます。もちろんそれはももクロに限らずどのアイドルにもそれぞれ個性や独自のテイストがあるわけですが、とくに今回私が印象に残ったのは、コンサート第1部でのプロレスや格闘技のノリを取り入れた演出でした。まずオープニングVTRが、覆面を被ったメンバーが金網とかリングで暴れたりするという、PRIDEとかK-1とかの選手紹介映像(“煽りV”)を模したものになっていて(ナレーターも同じ人)、それを受け登場*1した“マスク・ド・ももクロ”はやっぱり竹刀とか一斗缶を持って暴れたりし始めます。また公演中盤にインターヴァルが入ったと思ったら、控室にいるももクロ(とゲストの私立恵比寿中学)にアナウンサーみたいな人がインタヴューしに行くという映像が流れたりしていました。この控室中継インタヴュー映像もまた、そういったプロレスのテレヴィ中継によくある一幕の明らかなパロディ(コント)になっていました。あと、武藤敬司氏のものまねをやるお笑い芸人の神無月氏が登場したり(武藤氏本人は第2部で登場)、司会進行がケイ・グラント氏だったり……。だから、単にプロレスや格闘技のステージング面のみならず、そういったテレヴィ的、ヴァラエティ番組的なノリを取り入れたりしているあたりにスタッフのこだわりや力の入れようが感じられ、ももいろクローバーというアイドルの独自性、またブレイクのさなかにいる者ならではの強度と華やかさが伝わってきました。とくにそこで題材にするのが格闘技やプロレスといったいわゆる世間的本流から一歩ずれたケレン味のあるものを選んでいるあたりも、このグループの「面白さ」なのでしょう。もちろんパロディは見ている者がその元ネタが分からなければ成立しないという危険性があるわけですが、にもかかわらずあそこまで思い切ったパロディが展開されていたのはスタッフや製作陣に「ももクロのファンはここまでやってもきっと受けてくれる」という確信があるからです。そしておそらくファンも実際それをももクロの楽しさとして期待しているわけで、ここには送り手と受け手の間の共犯関係、内輪空間が成立しています。このような思い切ったパロディ、ある種のシニカルでメタな笑いはハロプロにはあまり見られない感覚、テイストです。
しかしそういったシニカルで笑える要素もありつつ、その一方で非常に直球で浪花節的なものもこの日のコンサートからは感じられました。第2部はももクロのそういった面が全面的に展開されていました。まあ第2部が実質的には早見あかりさんのラストステージになるためそういう雰囲気で押してくるだろうということは当然予想されるわけですが。第2部のオープニング映像は第1部とは打って変わっていわゆる「感動ノリ」*2なものになっていました。
この日披露された楽曲で一番印象深かったのは「走れ!」です。それはこの曲の際に非常に興味深い舞台演出*3がなされていたからです。それは説明すると単純なものなのですが、最後のサビのときにステージの照明が暗くなるというもの。すると観客にはステージ上のメンバーの姿が見えなくなり、メンバーが持っているペンライトの明かりだけが見えるようになります。そしてメンバーが頭上で手を振るのに合わせて動くペンライトの光は、客席で同じように手を振る(振りコピする)観客のサイリウムの動きと呼応、シンクロしているような格好になります。ステージの照明が暗くなるという演出は、制作者がどこまで意図していたのかは知りませんが、時節柄「停電」を連想させます。真っ暗なステージと客席で、メンバーと観客がお互いの存在を懸命に示しあうかのように激しく動くペンライトとサイリウムの小さな光。その光景には、現在の私たちが置かれた過酷な状況下では一人ひとりの存在はその光のようにちっぽけかもしれないが、しかしそれは確かな光(生命)を有しており、それがお互いの存在を確認しあうため必死でメッセージを発し合っているかのように映りました。困難な状況下にあっても確かに存在するアイドルとファンの間の紐帯が表現されているように感じられ、感動しました。
そして、公演は佳境に差し掛かり、卒業の儀へ。各メンバーから脱退する早見あかりさんへのメッセージ、同様に早見さんからメンバー一人ひとりへのメッセージ、そしてファンへのメッセージが、粛々と披露されて行きます。去年のモーニング娘。の卒コンを観た時にも思いましたが、やはりこのメッセージ朗読には独特の雰囲気があります。一人ひとりが自分の思いの丈をぶつけるため一つひとつのメッセージがそれなりの分量があり、それがおよそメンバーの人数×2回披露されるので、ちょっとした講演会*4ぐらいの時間にわたります。それをずっとファンは黙って見守って行くわけです。そしてしっかり感動して泣く。この冗長性はある意味すごい。現代社会の特徴である効率化とはまた違った論理で動いている場もあるんだなあという感じです。それこそが儀式であり、また「お約束」というものなのでしょうが。まあそんな風にして私もステージを真剣に見守っていたのですが、そのうちに自分もだんだんと気持ちが高まってきて、結局泣いてしまいました。美しい友情だったり人間の奥深いところにある感情だったりといったものがステージ上に表れていたように思えます。しかし、アイドルが号泣する姿というか、人間の感情が大いに発露する瞬間を生で見る、しかもコンサートという娯楽的な場で、というのはよくよく考えると特異なことだよなあと思いました。
メッセージ披露が終わると、その後は涙涙の大合唱、そして早見あかりさんが最後にステージから去り(舞台下に吸い込まれ)公演終了。すっかり放心し切っているところに、水木一郎の叫び声が聞こえてきて……。
これまで私にとってももクロというとまず楽曲の面白さ、とくに前山田健一氏による独創的かつ今日的なポップネスを持った楽曲が強くイメージとしてありましたが、今回のコンサートを見て、確信犯的でケレン味のある笑いと、直情的で浪花節な物語性というある種相反する要素の共存という魅力が、ファンではない一歩引いた位置にいる自分にも味わえた気がしました。

*1:ステージ下からせり上がってくるのですが、それも多分PRIDEを意識していると思います。

*2:でもそれもPRIDEの煽りVの一つのパターンぽかったです。

*3:この演出は第1部も第2部も変わりません。

*4:これは大げさですが、まあ学校の授業ぐらい。

「アイドルとは何か」という語りの問題

ある特定のアイドルについての語りが、アイドルとは何かという本質をめぐる議論にすり替わって行くこと。アイドルに対してある程度分析的な視点で書かれた文章には、多くこのような傾向がみられると思う。アイドルについて語る者は、なぜ「アイドルとは何か」というアイドルの本質論へと導かれるのか。
自戒を込めてこのブログのエントリを例示したい。
卒コンを見て あるいは「アイドルは宗教か」問題に関するメモ - 24アワー・キューティー・ピープル
私はモーニング娘。という具体的なアイドル集団の、ある特定の興行について語り始めた。そしてその興行を媒介にして、アイドルと宗教との質的関連性というアイドル論へと展開させた。しかし私はなぜ、モーニング娘。という数あるアイドルのうちの一つのなかにアイドル全体を貫通する本質を見出した(かのように思った)のか。もちろんそのような議論の展開の仕方は無自覚になされたものである。
ここでは、特定のアイドルについての分析がアイドル自体の本質についての議論へと短絡されている。アイドルとは何かという語りは、とかくアイドルファンの間で欲望されやすいように思われる*1
しかしそのような本質論はともすれば、具体的な対象を持たないままアイドルというイメージそのもの、それも語り手に内在するイメージへ向けて言葉が紡がれることになり、議論の空疎化を招く。アイドルという言葉が語り手にとっての観念の容れ物として、過剰な思い入れや願望の鏡であるかのように機能する場合もあるだろう。このような語りの肥大と散逸は、結果的にアイドル論の体系的整備を阻むだろう。
私はここで、アイドルとは何かという議論、アイドル論自体に批判を向けたいわけではない。それについては、正しいものもあれば間違ったものもあるというだけの個別的な話だろう。ここで問題にしたいのは、アイドルとは何かという本質論が語り手の中で喚起される傾向そのものである。そしてそのような傾向は、語り手の意識や能力によるものというよりは、構造的な問題であり、アイドルという現象そのものが孕んでいる内在的な問題でもあるだろう。よって、この問いに対する議論自体もまた、一つのアイドル論になるはずである(そしてそれ自体は、繰り返すように、正しいか間違っているかという妥当性を問われるのみである)。そしてそこでは、アイドルについての語りそのものが分析の対象として、それこそ言説分析的な視座によって検討されるだろう。

*1:このような傾向は、そもそもアイドルに限った話ではなく、マスメディアや複製技術によるイメージの流通を基盤とする文化(ポピュラー文化)にとって不可避である。

スマイレージ/パン屋さんのアルバイト――日常のミニマリズム・抑制の美学

ショートカット【初回生産限定盤A】

ショートカット【初回生産限定盤A】



イントロが鳴り出す。ギターとシンセ(?)のユニゾンで弾かれるメロディにぐっと引きこまれる。Aメロが始まる。グッド・メロディ!<制服を脱げば>という歌詞に一瞬「えっ」と思うが別にそういう意味ではないらしい。Bメロへ。もはや良いを通り越して切なさすら覚える。サビ。さりげない四つ打ちビートが醸す高揚感。と、ここで胸に迫るものがあり、なんだか泣きそうになってしまった。
この曲の何がそこまで良かったのか。ぼんやりとした印象をもとに考えてみる。
まず、4人の歌声が素晴らしい。この楽曲に描かれる物語の雰囲気や登場人物の感情の機微を100%表現しきっている。聴けばすぐにわかるが、この曲で4人は他の楽曲に比べて明らかに抑えられた発声の、繊細さを感じさせる丁寧な歌い方をしていて、それが非常に良いのだ。私にとってのこの曲の美点とは、そのようなヴォーカリゼイションに象徴させる、抑制や平熱感である。思い出すのは、「ぁまのじゃく」だ。あの曲もまた、日常の具体的な描写が織り成す物語性と繊細な内面描写を中心とした歌詞、また音楽的には、早すぎず遅すぎずの中庸なBPMに、ハシャがない主張しすぎない、楽曲の世界像に奉仕するために引き立て役に徹するようなトラックによって構成された楽曲であった(曖昧な説明ですいません)。そしてこの「パン屋さんのアルバイト」もまた、日常のミニマルでささやかな出来事――しかし歌の主人公にとっては一大事な恋愛のワンシーン――とその中での感情の揺れ動きが、中庸で抑制の効いた音楽性によって表現された楽曲である。
この曲の歌詞の中で特に目を引く部分がある。


  好きになった後に 嫌われちゃったら 私は当分 立ち直れないと思う


つまり、「これ以上好きになっちゃうと、この先もしその子から嫌われるようなことがあったら、私は当分立ち直れないくらい激しく落ち込むだろうな〜」ということだ。そのまんまである。これ以外に受け取りようがないくらい、何と率直で説明的な歌詞だろう。しかしこれを、「ケータイ小説のような歌詞」と揶揄される、近年のメインストリームJポップの歌詞と同質の、幼稚さや退行の表れだと評価してはいけない。いや、幼稚であると言っても間違いではないのだが、このフレーズにも作詞者なりの美学や技巧が確かに感じられるのである。重要なのは、ここには観念の入り込む余地がストンと抜け落ちているということだ。そこがこの国の今日的流行歌との大きな違いだ。先にも述べたように、これは、日常のミニマリズムであり、少女の内面をめぐるリアリズムなのだ。

スマイレージというと、つんく♂が1stアルバムのタイトルにおいて「悪ガキッ」という言葉で総括したように、アンファンテリブルさやコミカルさを基本路線として期待されているようだ。しかし、個人的にはそういった路線も楽しくていいのだが、この曲で描かれているような、少女ならではの慎ましやかで繊細な側面も表現していってもらいたい。私はむしろスマイレージにはどこか頼りなげな、「小さき者」としての側面に惹かれるところもある。あの、日本レコード大賞最優秀新人賞受賞をアナウンスされたときの、あまりの衝撃と感動に4人揃ってヘロヘロの状態になってしまい、お互いの身体を支え合うかのように手を取り合いながらよちよちと壇上へ向かって歩いて行く4人の姿には、そのような存在としてのスマイレージが表れていたと思う。

アイドルの歌う「ラブソング」をどう聴くか(2)

以前、Berryz工房の「友達は友達なんだ!」の歌詞について、「恋愛の流動性が社会的に高まる中で希少化(≒「癒し」化)される友情」が描かれていると書いた*1。つまり、自由恋愛の流動的な関係性に疲れたらいつでも帰ることのできる、「癒し」の場としての「友情」がテーマとなっている。これは見方によっては、友情を称揚するために恋愛を相対的な立場に置いているとも言える。恋愛が流動的なものにすぎないという認識をあっけらかんと表現しているこの歌詞は、恋愛に対する過剰な美化やロマンティシズムを「お約束」とするアイドルのラブソングとしては珍しいのではないかと思う。
恋愛というものに対する冷めた視線はしかし、モーニング娘。の近作にもみることができる。「女と男のララバイゲーム」では、「恋愛とは付き合ったり別れたりを繰り返すゲームに過ぎないが、それでも恋愛せずにはいられない私」の姿が悲喜劇めいた調子で描かれる。この歌詞の主人公の恋愛に対する認識は「友達は友達なんだ!」とは比べようもないほど露骨にリアリスティックで、クールである。しかしこの曲では、そのような冷めた視線によって恋愛を相対化しきるのではなく、そういった否定的でニヒリスティックな視線を挟み込む、通過させることによって恋愛の神秘性をむしろ強化していると言える。つまり、恋愛における「運命」や「一回性」を否定しながらも、「それでも恋愛せずにはいられない」という、恋愛を前にした自分の制御不能の感覚を表明することによって、ロマンティックな幻想とは無関係に「私」を没入させる、非常な強度を持ったものとしての恋愛の姿を浮かび上がらせている。そしてこのような描き方もまた、恋愛に対して別種のロマンティシズムを呼び寄せる、神秘化の言説である。