ハロプロのいない春(にももクロを観る)

震災が起きて以降アイドルのライブやイベントが数多く延期や中止に見舞われましたが、それは当然ハロプロも例外ではありませんでした。しかし、4月も終わりに差し掛かってきた現在では、おおむね予定通りの興行が行われるようになっているようです。私はというと、地震のあったあの日以降まだハロプロの現場に足を運べていません。
自分は被災地に住んでいるわけではないので、東京からやや遠隔地に住んではいるものの、現在は充分現場に行ける環境にあるのですが、年度初めの仕事の忙しさや4月から少し生活環境が変わったこと、またそれ以外にも、極私的なことですが気分が塞ぐようなこともあったりして、単純に現場に行く元気が湧かないのです。また、DVDを観たり関連サイトを巡回したりといった在宅活動にもあまり興が乗りません。
それなりに熱心に続けていたヲタ活動がこうしてぷっつりと途絶えてしまったいま、震災の直接的な影響を自分は大して受けていないにもかかわらず、あの日を境に自分の生活がガラッと変わってしまったような心境にあります。
しかしそんな状況下でもちゃっかりと、4月10日に行われた<ももいろクローバー中野サンプラザ大会 ももクロ春の一大事 〜眩しさの中に君がいた〜>には行ったのです。正直私はももクロのファンというわけではないのですが、運よくチケットが手に入ったので見に行くことができました。熱心なももクロファンでこのコンサートを見られなかった人も多かったろうに、私なんぞが見ていいのだろうかという後ろめたさも若干感じつつ。ももクロといえばこの数ヶ月で急速にメディアから大きく取り上げられるようになった感もあり、非常な注目を集めるなか行われる今回のコンサート、しかもメンバーの早見あかりさんのラストステージということで、一体どんなものが見られるのかと、極めてミーハーな姿勢で臨みました。
感想ですが、まず自分にはハロプロとのテイストの違いみたいなものにやはり目が行きます。もちろんそれはももクロに限らずどのアイドルにもそれぞれ個性や独自のテイストがあるわけですが、とくに今回私が印象に残ったのは、コンサート第1部でのプロレスや格闘技のノリを取り入れた演出でした。まずオープニングVTRが、覆面を被ったメンバーが金網とかリングで暴れたりするという、PRIDEとかK-1とかの選手紹介映像(“煽りV”)を模したものになっていて(ナレーターも同じ人)、それを受け登場*1した“マスク・ド・ももクロ”はやっぱり竹刀とか一斗缶を持って暴れたりし始めます。また公演中盤にインターヴァルが入ったと思ったら、控室にいるももクロ(とゲストの私立恵比寿中学)にアナウンサーみたいな人がインタヴューしに行くという映像が流れたりしていました。この控室中継インタヴュー映像もまた、そういったプロレスのテレヴィ中継によくある一幕の明らかなパロディ(コント)になっていました。あと、武藤敬司氏のものまねをやるお笑い芸人の神無月氏が登場したり(武藤氏本人は第2部で登場)、司会進行がケイ・グラント氏だったり……。だから、単にプロレスや格闘技のステージング面のみならず、そういったテレヴィ的、ヴァラエティ番組的なノリを取り入れたりしているあたりにスタッフのこだわりや力の入れようが感じられ、ももいろクローバーというアイドルの独自性、またブレイクのさなかにいる者ならではの強度と華やかさが伝わってきました。とくにそこで題材にするのが格闘技やプロレスといったいわゆる世間的本流から一歩ずれたケレン味のあるものを選んでいるあたりも、このグループの「面白さ」なのでしょう。もちろんパロディは見ている者がその元ネタが分からなければ成立しないという危険性があるわけですが、にもかかわらずあそこまで思い切ったパロディが展開されていたのはスタッフや製作陣に「ももクロのファンはここまでやってもきっと受けてくれる」という確信があるからです。そしておそらくファンも実際それをももクロの楽しさとして期待しているわけで、ここには送り手と受け手の間の共犯関係、内輪空間が成立しています。このような思い切ったパロディ、ある種のシニカルでメタな笑いはハロプロにはあまり見られない感覚、テイストです。
しかしそういったシニカルで笑える要素もありつつ、その一方で非常に直球で浪花節的なものもこの日のコンサートからは感じられました。第2部はももクロのそういった面が全面的に展開されていました。まあ第2部が実質的には早見あかりさんのラストステージになるためそういう雰囲気で押してくるだろうということは当然予想されるわけですが。第2部のオープニング映像は第1部とは打って変わっていわゆる「感動ノリ」*2なものになっていました。
この日披露された楽曲で一番印象深かったのは「走れ!」です。それはこの曲の際に非常に興味深い舞台演出*3がなされていたからです。それは説明すると単純なものなのですが、最後のサビのときにステージの照明が暗くなるというもの。すると観客にはステージ上のメンバーの姿が見えなくなり、メンバーが持っているペンライトの明かりだけが見えるようになります。そしてメンバーが頭上で手を振るのに合わせて動くペンライトの光は、客席で同じように手を振る(振りコピする)観客のサイリウムの動きと呼応、シンクロしているような格好になります。ステージの照明が暗くなるという演出は、制作者がどこまで意図していたのかは知りませんが、時節柄「停電」を連想させます。真っ暗なステージと客席で、メンバーと観客がお互いの存在を懸命に示しあうかのように激しく動くペンライトとサイリウムの小さな光。その光景には、現在の私たちが置かれた過酷な状況下では一人ひとりの存在はその光のようにちっぽけかもしれないが、しかしそれは確かな光(生命)を有しており、それがお互いの存在を確認しあうため必死でメッセージを発し合っているかのように映りました。困難な状況下にあっても確かに存在するアイドルとファンの間の紐帯が表現されているように感じられ、感動しました。
そして、公演は佳境に差し掛かり、卒業の儀へ。各メンバーから脱退する早見あかりさんへのメッセージ、同様に早見さんからメンバー一人ひとりへのメッセージ、そしてファンへのメッセージが、粛々と披露されて行きます。去年のモーニング娘。の卒コンを観た時にも思いましたが、やはりこのメッセージ朗読には独特の雰囲気があります。一人ひとりが自分の思いの丈をぶつけるため一つひとつのメッセージがそれなりの分量があり、それがおよそメンバーの人数×2回披露されるので、ちょっとした講演会*4ぐらいの時間にわたります。それをずっとファンは黙って見守って行くわけです。そしてしっかり感動して泣く。この冗長性はある意味すごい。現代社会の特徴である効率化とはまた違った論理で動いている場もあるんだなあという感じです。それこそが儀式であり、また「お約束」というものなのでしょうが。まあそんな風にして私もステージを真剣に見守っていたのですが、そのうちに自分もだんだんと気持ちが高まってきて、結局泣いてしまいました。美しい友情だったり人間の奥深いところにある感情だったりといったものがステージ上に表れていたように思えます。しかし、アイドルが号泣する姿というか、人間の感情が大いに発露する瞬間を生で見る、しかもコンサートという娯楽的な場で、というのはよくよく考えると特異なことだよなあと思いました。
メッセージ披露が終わると、その後は涙涙の大合唱、そして早見あかりさんが最後にステージから去り(舞台下に吸い込まれ)公演終了。すっかり放心し切っているところに、水木一郎の叫び声が聞こえてきて……。
これまで私にとってももクロというとまず楽曲の面白さ、とくに前山田健一氏による独創的かつ今日的なポップネスを持った楽曲が強くイメージとしてありましたが、今回のコンサートを見て、確信犯的でケレン味のある笑いと、直情的で浪花節な物語性というある種相反する要素の共存という魅力が、ファンではない一歩引いた位置にいる自分にも味わえた気がしました。

*1:ステージ下からせり上がってくるのですが、それも多分PRIDEを意識していると思います。

*2:でもそれもPRIDEの煽りVの一つのパターンぽかったです。

*3:この演出は第1部も第2部も変わりません。

*4:これは大げさですが、まあ学校の授業ぐらい。