乃木坂46の、LIVE!

Zepp Tokyoで行われた乃木坂46のワンマンライブ(の夜公演)に行ってきた。このライブの素晴らしさを、あの場に居合わせなかった人に伝えるのは難しい。乃木坂46のファンでない人に伝えることはもっと難しい。いや、他ならぬこの自分にさえ確かな手触りを持って伝えることすら難しいのかもしれない。なぜなら、たった1年前にこの身を全て捧げてもいいと思えたアイドルが、いまやクソほどの価値も感じない、という経験を自分は過去にしているのだから……。なのでいまから1年後にも変わらずこの日のライブを素晴らしかった思える自分でいられるかどうか、何一つ確証はない……。愛は、瞬間の中にしか存在しない――そんな、広告代理店が考えそうな手垢にまみれた惹句には一つの真実が宿っている。
そんなことはさて措き、レポを書こうと思う。この日は、女性・親子席で観た。なぜそんな席で観たのか。自分は身長が低いのでライブハウスでは満足にステージを見られず悔しい思いをすることが多い。なので、スタンディングではなく座って見られる席の方がステージがよく見えるのではと思ったのだ。女性・親子席と謳っているのに成人男性の自分が行っても大丈夫だろうかとも思ったが、きっとハロプロで言うところの「ファミリー席」みたいなものだから大丈夫だろうと思った。ハロプロのコンサートの席種である「ファミリー席」は、実際のところオッサンばかりでとてもファミリー感は薄く、独り者の男が座っていても何ら浮くことは無い。しかしこの日2階にある女性・親子席に行ってみると、子連れはそこまで多くないものの、女性がかなり多くて焦った。自分のようなむさくるしい男がそんな席に陣取ってしまっていいのか、という場違い感に冷や汗をかいた。
ライブ開始。自分はこのライブに数日前に買ったばかりの双眼鏡を持参して臨んだ。これが大当たりだった。いつものライブだと遠目にぼんやりとしか見えないメンバーの表情や挙動をつぶさに見ることができる*1。今までにないライブ観賞体験。私はこの時ほど双眼鏡というテクノロジーの存在に感謝したことはない。逆に、現場系アイドルオタクを4年くらいやっていてなぜ自分はずっと双眼鏡に手を出さなかったのか、その間抜けぶりに呆れた。
しかし、双眼鏡の素晴らしさと同時にその弊害にも気付かされた。双眼鏡で乃木坂46のステージングを見ていると、視覚情報のあまりの鮮烈さに、演奏や音楽といった聴覚からの情報に意識が向かないのだ。双眼鏡から覗けるステージ上の桃源郷に心奪われるあまり、日ごろ愛聴している乃木坂楽曲にノれていない自分に気づく。だから、これをライブで聴けたらもう死んでもいいくらいに思っていた「偶然を言い訳にして」も自分としては不完全燃焼に……。試しに双眼鏡を眼前に構えた体勢のままリズムに合わせて身体を揺らせてみたのだが、どこかしっくりこなかったし、多分傍目にも気持ち悪い人に映ってしまうと思ったのでやめた。
ステージ上のメンバーを近接性を持って眼で捉えることと、音楽的な快楽をフィジカルに発散させることを両立させるにはどうすればいいのか――。これはもう、最前をとれ、ということである。
そんなこんなでショウは進行していく。中盤、いくちゃんがステージ端に置かれたピアノに向かい、独奏を始める。ほどなくして、彼女が弾いている曲が「心の薬」であることに気付く。すると、メンバーたちが直立のままいくちゃんのピアノ演奏をバックに合唱を始めた。おお、音源とは違うこういう形で歌うのか。個人的にも「心の薬」は非常に思い入れがある曲だが、そういった曲をこのような特別なアレンジで披露してくれることがうれしい。そう思っていると、周囲の客の会話が耳に入り、このアレンジによる「心の薬」はミュージカル『16人のプリンシパル』ですでに披露されているということを知る。そんな重要なことすら知らない自分は一体なんなんだ。。。
曲中、ステージ後ろのスクリーンには、『16人のプリンシパル』の舞台裏、稽古風景と思しき写真のスライドショーが流れており、それを見ていると胸に迫るものを感じる。自分は件のミュージカルは観に行っていないが、「乃木どこ」で放送されたその舞台裏の模様を見て、いかに乃木坂46というグループにとって特別な経験/作品だったかは充分認識していたので、観に行っていない自分でも大きな感動を覚える。そういった相乗効果もあり、この「心の薬」は個人的にこの日のハイライトだった。大きな声では言えないが、思わず落涙してしまった。
MCについて若干触れる。この日のMCでは「ゆく坂くる坂」と題して、2012年の活動を1ヶ月ごとに振り返っていった。その中で、以前に乃木坂46が出演した明治製菓のチョコのCMでななみんが「そっちこそ」と言うシーンがあるそうだが(そのCMの存在すら知らなかったので後でYouTubeで確認した)、それをななみんがツイッターで検索したら「そっちこそムカつく」と書かれていた、というエピソードをななみんが話していた。すると生駒ちゃんが「(そんなこと書いたやつ)誰だー、誰だー」と軽くドスをきかせるような感じで言っていて面白かった。その後もどういう話題の時だったか忘れたがその「誰だー、誰だー」をまた言っていて、彼女のお気に入りなのだろうと思う。双眼鏡で見ていると、生駒ちゃんが時々見せるユニークな表情や動きをしっかり捉えられるので、「ますます生駒ちゃんの一挙手一投足から目が離せないなー!」と思った。*2
本編終了。アンコール。「WHITE HIGH」という、薬物による陶酔感を二重に連想させるような危険な名前を持つ4人組新人バンド(しかも、ボーカル×2+アクースティックギター×2という珍しい編成!)がステージに現れ、当惑する。しかしよく見ると、まいやん、かずみん、ななみん、まいまいの4人だった。*3そして、「渋谷ブルース」の演奏が始まる。このときの演奏については、かずみんの素晴らしさに尽きる。こんなに情感あふれた歌唱力を持っていたのか、かずみん、と畏れ入った。また、表情が素晴らしかった。いわゆるアイドル的営業スマイルとも、演歌的な「切な顔」とも違ったなんとも微妙なニュアンスを湛えた表情で歌っていて、終始目が離せなかった。まいまいとななみんのアコギ演奏もじっくり見たかったが、スポットライトが当たるのはボーカルの二人のみで、ギターの二人はステージの脇の方でほとんどライトが当たらないためよく見えなかったのが残念。
制服のマネキン」、この日二回目の披露。この曲のダンストラックとしての強度を再確認。やはりスタンディングで踊りながら観たい、という衝動に駆られた。
全ての演目が終了。ワンマンライブの成功を祝福する大団円ムードが会場を満たした。玲香キャプが、ライブが成功したことの感謝や嬉しさを述べる。その中でふと生駒ちゃんが「嬉しいけど、悲しいね」とぽつりとつぶやいた。多分、楽しい時間は楽しければ楽しいほどそれが終わることの悲しさもまたひとしおである、という意のこめられた発言だったのだと思う。それはあの会場にいたファン全てにとっても同じだったろう。しかし、その発言に何かいろいろ考えさせられてしまうのは自分だけだろうか。楽しい時間、幸福な時間、それはこのライブを超えたスパンで見た時、どれだけ乃木坂46というグループを包んでくれるだろうか?2期生募集、5thSGの選抜メンバー発表、これらのニューズがアナウンスされる時のメンバーの厳しい表情(たとえ表情に表れなくてもその内心は推し量れる)は、彼女たちの道のりがそんな楽しさばかりでないことを伝えて余りあるものがあった。もちろん、そのような過酷な試練を乗り越えてこその楽しさや達成感があるのだ、という根性論的、ネオリベ的(?)な結論に落ち着いてもいいのだが。。。*4
また、この日会場に集った乃木坂46のファンたちはこの先も乃木坂46に変わらぬ愛情を注ぎ続けることができるだろうか?アイドルというものの厳しさや怖ろしさについて、生駒ちゃんがインタビューなどで語っていることを知るファンも多いだろう。おそらく、「現場」というものの比重の大きさや生身の人間の少女性によって成立するアイドルという文化は、現在進行形の刹那的な快楽をその体験の要とする。今が楽しければそれでいい、というのは消費者の立場としては間違っていないが、そうした立場が孕む暴力性について、思いを馳せずにはおれないのである。

*1:ちなみに、表情やダンスの動きという面で、この日一番魅せられたのは市來玲奈だった。

*2:たとえば生駒ちゃんがロマンスと思しき動作を一瞬見せるときがあり、自分の周囲のお客さんも「いまのロマンスじゃね?」とざわついていたが、しかしこの日ロマンスと言えば終演時にステージから掃けるときに中田花奈が全力で披露していたあれを置いて他にはない。

*3:実際にはWHITE HIGHというのはその名の通り白石麻衣と高山一美の二人組ユニットの名称らしい。

*4:現代の日本において支配的なそうしたネオリベ的価値観は、秋元康の歌詞にも充溢していることは言うまでも無い。