映画『キサラギ』から<アイドル>を考える

キサラギ』という日本映画を観ました。基本的にはウェルメイドなエンタテインメント作品でしたが、自分にとってはアイドル現象の特異性、また、アイドルとファンの関係などについて考える上での材料になるような内容でした。ということで、この映画を観て考えたことを書いてみます。(以下ネタバレ含む。)


【あらすじ】
焼身自殺したアイドル如月ミキの一周忌として、ファンサイトの掲示板をきっかけに一堂に会した5人の熱狂的なファン。如月の思い出に浸る平和なオフ会になると思われた追悼会は、ある出席者の切り出しをきっかけに、彼女の死の真相をめぐる推理劇になっていく。紆余曲折の推理、激論の末に5人はある結論にたどり着く……。


前にも書きましたが、これは印象や実感の話として、ファンにとってアイドルとは常にどこか謎めいた存在、真実を知りたいと願ってもたどり着けない存在として経験されるように思います。『キサラギ』は、このようなアイドルをめぐる到達不可能性、「謎」性を、自死の真相をめぐる謎解きミステリーという形式として描きだした作品として観ることができます。如月ミキの死の真相や彼女の内面をめぐって5人が激論し、断片的な彼女の記憶や情報に翻弄される姿というのはアイドルに対してファンが抱く謎めいた印象、実像への到達不可能性が表現されているかのようです。
物語の中で5人は死の真相をめぐる推理の材料として様々な情報、つまり如月ミキの「断片」を提示し、推理を展開します。ここには、ファンがアイドルという存在をどのように消費するかという様態が象徴的に表れているように思います。というのも、ファンによるアイドルの消費の仕方とは、常に各種のメディアに散らばった断片的な情報やコンテンツを収集するようなものだからです。これは映画や小説、マンガ、アニメといった他のポピュラー文化の諸ジャンルと比べるとわかりやすいのですが、アイドルには一つの決定的/固定的な作品や原テクストが存在せず、完結性や全体性を持ちえない。斧屋氏(id:onoya)はアイドル消費のこのような側面を、生身の身体を持った複製不可能な「存在」を消費することとして位置づけ、アイドル消費において「作品」と同等に特権視されるものとしてライブやイベントなどの一回性を持った「体験」を挙げています*1
私たちがアイドルを受容することとは、各種の媒体に登場したアイドルという存在の「断片」を消費することです。コンサート、握手会などのイベント、CDやDVD、写真集、そのどれもがアイドルの全体性を示すことのない断片的なものにすぎません。アイドルという存在はその断片によってファン一人ひとりの中で構成されるのです。
このようなアイドル消費の断片集積性は、インターネットが普及し、ウェブがアイドル消費の主要な舞台として台頭して以降さらに強まっています。ウェブ上に散らばる無数の画像や動画、音源の収集、また掲示板やSNS等のソーシャルサービスでやり取りされる無数の言説によって紡ぎだされる集合知的アイドル像――これがウェブ時代のアイドル消費の姿です。仮にこの物語が、オフ会という場ではなくオンライン上を舞台にしていたら、今日的でラディカルな別種の作品になったのではないかと思います。
物語の中で5人は延々と如月の死の真相ひいては彼女の実像をめぐって議論を戦わせあらぬ限りの情報/断片を持ち寄ります。しかし、如月ミキ当人が物言わぬ死者であるがゆえに彼らの議論は、決定的な真実を欠いたまま一向に収束を見せません*2。この映画には如月ミキ当人は登場しません*3。それゆえ私たちは彼らの語りを通してしか、不在の如月ミキというアイドルのことを知りえない。彼らの語りによってのみ、観る者の中で如月ミキというアイドルが構成されて行くわけです。
この、語りの対象である本人が不在であること、言い換えれば、当人が何も語ってくれないこと、という条件はアイドルという現象について考える上でのもう一つの問題を浮き彫りにします。
この物語の中で彼女が不在であることは、真実を語る者がいないことを意味します。そして、アイドルとは決して真実を語らない存在です。確かに、私たちが消費するアイドルは、(多くの場合)如月ミキのような死者ではない。しかし、真実や本心を語らない、語ることができない存在であるという意味ではある種の不在感を孕んだ存在なのです。そして、真実や本心が提示されないがゆえに、ファンはアイドルをめぐって終わりない語りを繰り広げることになります。
如月ミキはもう真実は語ってくれない。しかし物語の終盤で5人はこの推理劇を決着させる結論、つまり彼らなりの「真実」にたどりつきます。その結論は、如月ミキの死は自殺ではなく事故死であり、彼女は苦悩していたわけではなく幸福なアイドルだった、というものです。この結論に達した5人の晴れやかな表情と幸福なムードの中、映画は終わります。
映画の演出を観る限り、この結末に多義的な色合いを読み取ることはできません。しかし、観る人によってはこの「ハッピーエンディング」に欺瞞やアンビバレンスを読み取るでしょう。すなわち、彼らはファンである自分たちの都合のいいように解釈しているだけではないのか、と。この指摘は一種の深読みであり、エンタテインメントとしてつくられたであろう本作の完成度に対する批判としてはあまり有効ではないと思われます。しかしこの物語をアイドルという現象について考える上での材料として観た場合、ここに一つの問題を読み取らざるをえません。
その問題を要約すると以下のようになります。この結末にはファン(や事務所など)の身勝手な自己満足が表れており、そのような身勝手さによって半ば無意識的にアイドルの主体性や内面が抑圧されている。このような抑圧構造を隠ぺいしたところにこの物語の「感動」がある――。ここで参照したいのが、大塚英志岡田有希子の自殺について寄せた論考*4です。大塚はこの論考の中で、アイドルをめぐる語りがもっぱら男の側のものであり、その語りはアイドルを「情報」化するとし、「情報」化に晒されたアイドルはそれに抗する言葉を持たないため、彼女たちの生身の身体は引き裂かれるという批判的な議論を展開します。ここで大塚が問題の根幹として捉える、アイドルが自らを語る言葉を持たないこと、これは『キサラギ』の中で物言わぬ死者として象徴的に提示された、不在のアイドルの姿と重なります。しかし大塚も指摘しているように、ひとたびアイドルが自意識や内面を表出させたらアイドルとしての彼女が成立不可能になってしまう。アイドルは常にファンが想定する像の範疇でしか私たちに現前せず、そのようなお約束、予定調和性によってファンとアイドルとの関係は保たれている。アイドルは、自分が担うキャラクターに自己の身体を順応させることを日々強いられている、と言うことができます。
私は、このような議論は多分に疎外論的なきらいがあると思います。今日の日本社会においては、私たちの日常的な人間関係にまでキャラクターの圧力があるとみなす社会論はすでに説得的なものとして受け入れられ、このような日本社会をいままさに席巻しているAKB48もまたキャラ/キャラクター論の枠組みで分析されている現在、キャラクターの暴力性をことさらアイドルに読み込むのは過剰反応ではないか、とも思います。この問題については、本心が見えない表層的な存在であるからこそファンとアイドルという関係性、ひいてはアイドルという現象そのものが成立しているのだという限界を認めるしかないというここまでの議論を踏まえ、アイドルの内面や主体、自意識の問題はひとまず留保したいと思います。
そのうえで今日的な状況として指摘したいのは、アイドルの多くがブログやツイッターをしている現在では、この物語に描かれているようなファンとアイドルとの間の隔たりやディスコミュニケーション、実像が掴めないアイドルに対して一方的にファンが想像を働かせるという関係性は部分的には失われているということです。アイドルが日々何を考えているか、今日何をしたかということが(そこで紡がれる言葉が大塚言うところの「彼女たちの言葉」であるかどうかはさておき)ブログやツイッターによりある程度知ることができるようになったことは、ファンにとってはおおむね肯定的に捉えられているように思えます。しかし、ブログやツイッターのようなある種の親密性を提供する情報が存在しないがゆえにドライブされるファンの飢餓感や想像力、つまり欲望は一方で失われているのではないでしょうか。だから、『キサラギ』に登場する5人のファンのある過剰さは、ウェブ以前のアイドルファンの姿として、どこか牧歌的に映ります。




キサラギ スタンダード・エディション [DVD]

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「おたく」の精神史 一九八〇年代論

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

*1:斧屋「アイドル論の困難とその意義」『アイドル領域』創刊号、ムスメラウンジ、2009年。http://d.hatena.ne.jp/onoya/20091230/1260457766

*2:ミステリアスな自死を遂げた憧れの女性を追想するという点で同様の主題をもつ映画作品として『ヴァージン・スーサイズ』(監督:ソフィア・コッポラ、1999年、米。)がある。残された男たち(≒ファン)がそれぞれの生前の記憶を持ち寄り彼女たちの実像に迫ろうとするが、それらが断片的な記憶でしかないが故に到達不可能な不全感に陥る彼らの姿が叙情的に描かれており、作品のタイプこそ違えど『キサラギ』と共通する点は多いと言える。

*3:回想シーンにおいてのみ、顔面が隠された静止画で登場する。またエンディングで、イベント会場でパフォーマンスする彼女がやはり顔面が隠されたまま登場する。

*4:大塚英志岡田有希子と「身体なき」アイドル」『「おたく」の精神史――一九八〇年代論』講談社現代新書、2004年。