「アイドルとは何か」という語りの問題

ある特定のアイドルについての語りが、アイドルとは何かという本質をめぐる議論にすり替わって行くこと。アイドルに対してある程度分析的な視点で書かれた文章には、多くこのような傾向がみられると思う。アイドルについて語る者は、なぜ「アイドルとは何か」というアイドルの本質論へと導かれるのか。
自戒を込めてこのブログのエントリを例示したい。
卒コンを見て あるいは「アイドルは宗教か」問題に関するメモ - 24アワー・キューティー・ピープル
私はモーニング娘。という具体的なアイドル集団の、ある特定の興行について語り始めた。そしてその興行を媒介にして、アイドルと宗教との質的関連性というアイドル論へと展開させた。しかし私はなぜ、モーニング娘。という数あるアイドルのうちの一つのなかにアイドル全体を貫通する本質を見出した(かのように思った)のか。もちろんそのような議論の展開の仕方は無自覚になされたものである。
ここでは、特定のアイドルについての分析がアイドル自体の本質についての議論へと短絡されている。アイドルとは何かという語りは、とかくアイドルファンの間で欲望されやすいように思われる*1
しかしそのような本質論はともすれば、具体的な対象を持たないままアイドルというイメージそのもの、それも語り手に内在するイメージへ向けて言葉が紡がれることになり、議論の空疎化を招く。アイドルという言葉が語り手にとっての観念の容れ物として、過剰な思い入れや願望の鏡であるかのように機能する場合もあるだろう。このような語りの肥大と散逸は、結果的にアイドル論の体系的整備を阻むだろう。
私はここで、アイドルとは何かという議論、アイドル論自体に批判を向けたいわけではない。それについては、正しいものもあれば間違ったものもあるというだけの個別的な話だろう。ここで問題にしたいのは、アイドルとは何かという本質論が語り手の中で喚起される傾向そのものである。そしてそのような傾向は、語り手の意識や能力によるものというよりは、構造的な問題であり、アイドルという現象そのものが孕んでいる内在的な問題でもあるだろう。よって、この問いに対する議論自体もまた、一つのアイドル論になるはずである(そしてそれ自体は、繰り返すように、正しいか間違っているかという妥当性を問われるのみである)。そしてそこでは、アイドルについての語りそのものが分析の対象として、それこそ言説分析的な視座によって検討されるだろう。

*1:このような傾向は、そもそもアイドルに限った話ではなく、マスメディアや複製技術によるイメージの流通を基盤とする文化(ポピュラー文化)にとって不可避である。