『三億円少女』についてもう少し考えてみよう

三億円少女』の感想については前回書きましたが、もう少し自分なりに思うところがあったので、ダラダラと書いてみます。


一つ気になるのは、依子の、声色を変えられる(成人男性のような低い声が出せる)という特殊能力は何だったのか、ということです。言うまでもなく、この能力は三億円強奪の際に利用されるわけですが、もしかしてそのためだけに設定された能力なのでしょうか。というのも、作品内にそのような超現実的な要素を登場させることは、観る者にこの作品がファンタジー的な要素を持つ物語であるという印象を与え、それならばタイムスリップという現象もこの物語ではきっと起こりうるのだろうと、観客に思わせることになるからです。つまり、声色を変えられるという不思議な能力が、タイムスリップという超現実的事態のある種の伏線なのではないか、と。しかし最終的には、タイムスリップはなかった、という「現実的な」真相が提示されます。すると、声色を変えられるという能力だけが、この物語の中で場違いなファンタジー的要素として浮いてしまうわけです。作品全体の整合性という観点からも、この不思議な力の設定は、必要だったのでしょうか。
この問題を、タイムスリップはあった、つまりあの少女は本当に42年前の依子だった、という解釈を許容する一つの根拠として捉え返すことはできないでしょうか。
一番引っかかるのは、物語冒頭、琴絵が依子に出会うシーンです。真相としては、依子と思われた少女は孫娘の一希で、琴絵と依子は初対面ではなく友達同士だった。しかし、それでも間違いなくこの、琴絵が見知らぬ少女に出会う場面は、劇中に「あった」のです。より精確に言えば、琴絵が警官の格好をした風変わりな少女に対して、まるで始めて出会ったかのようなリアクションをする場面は、劇中に存在しました。
これは私たちが普段意識しないほど当たり前のことなのですが、種々の物語表現において、作品内で描かれる場面が、作品内現実において「実は存在しなかった」という可能性は、それが存在しなかったと明示されない限り、排除されるはずです。いくつかの例外はあります。夢や想像、幻覚とか心理描写については、作品内現実ではありません(厳密にいえば、それらは作品内登場人物の内面では起きたことなので、作品内現実と言えるのですが)。しかしあの場面は、少なくとも夢や幻覚であるような描かれ方はされていません。では、あの「出会い」の場面は、この作品内では実際に起きたことではなかったのでしょうか?タイムスリップはなかったという真相に従えば、あれは実際に起きたことではないはずです。しかしそれはあくまで解釈上の話であり、あの場面が「実は存在しなかった」ということは「事実として」登場人物の誰も明言していないのです。そもそもそんなメタな位相はこの作品にはありません。繰り返しますが、タイムスリップが狂言だったことと、「出会い」の場面が存在したことは、水準の違う話です。
回りくどい言い方をしましたが、要するにあの「出会い」の場面が作品内に存在する以上、「タイムスリップは本当にあった=あの少女は依子だった」説は排除しきれない。これは単に「そういう解釈もありうる」という話ではありません。この出会いの場面の存在が、「タイムスリップはなかった=依子だと思われた少女は一希だった」という「真相」の真正性・唯一性を阻害するものとして、異物のように残り続けてしまうということを指摘しているだけなのです。
ここから先は、「タイムスリップは本当にあった=あの少女は依子だった」と仮定したうえでの、私の個人的な解釈の話で、空想が多分に含まれます。そのことはお断りしておきます。
さて、あの少女が本当に42年前からやってきた依子だったと仮定した場合、依子はなぜ自分を孫娘であると偽り、一朗のもとを去ったのでしょうか。おそらく依子は、一朗の依子や42年前の彼に降りかかった事件への依存を断ち切りたかったのではないでしょうか。少女が依子であると知ったことで一朗が露わにした積年の思いを目の当たりにした依子は、自分にはその思いを受け止めることはできないと思ったのです。前回のエントリでも書いたように、一朗は現在もなお42年前の事件に苛まれていました。自分がいることで一朗の過去への依存がますます深まり、現実との乖離を加速させてしまうことを危惧した依子は、一朗のためにも彼のもとを去らなければいけないと決心した。そこで、依子は唯一まほろばの外部の人間である琴絵に事情を打ち明け、自分が依子ではなくその孫娘であると皆に思わせるために一芝居打つ計画に協力してもらうよう頼んだ。結果この計画はうまくいき、依子はまほろばと一朗のもとを去った。
以上は、依子が本当に42年前からタイムスリップしてきたと仮定した場合の、私の個人的な解釈です*1。これは実際深読みの域を出ませんし、数ある可能な解釈のうちの一つに過ぎません。しかしどのような解釈をするにせよ、「タイムスリップは本当にあった=少女は依子だった」説を採用した場合、必ず一つの問題に突き当たってしまいます。それは、「一希」という名前がどこから来たのか、ということです。言うまでもなく、少女が孫娘ではなかったという説を選ぶと、一希は実在しない架空の存在ということになり、一希という名は依子があの場で考え出した名前ということになってしまいます。では、なぜそのような名前を付けたのか。劇中では、その名前は、一朗の「一」という字から来ており、依子は一朗のもとを去ってからも一朗への強い思いを変わらず抱いていたことの証なのだ、と語られます。これを「タイムスリップは本当にあった=少女は依子だった」説に則して捉え直すとどうなるでしょうか。依子本人が一希という架空の存在を通して間接的に一朗への思いの強さを伝えた、ということなのでしょうか。しかしそれが「一希」という虚構の存在を媒介している以上、どうしてもその発言の信憑性に疑いの余地が生じてしまいます。自分が再びそのもとを去ろうとしている一朗への配慮からなされた発言であるともとれます。やはり、これもまた私の個人的な深読みにすぎないのですが。
物語の真実が、少女が依子ではなかったという「真相」の通りであっても、「真相」に反し少女は本当に依子だったと仮定した場合であっても、結局この作品の謎はある一点に集約されます。それは、依子の一朗への思い、依子の本心です*2。この作品では、その問題に対してはっきりとした解答が提示されず観賞者の解釈に委ねられています。依子の本心はどこにあったのか、依子は本当はどのような女性であったのか、その謎について、観賞者は思いを巡らせることになるのです。話が飛躍するようですが、これは、ファンがアイドルに対して抱く思いに似ていないでしょうか。私たちアイドルファンにとってアイドルとは、常にある種の謎とともにある存在として私たちは経験していないでしょうか。これ以上の深追いは別の機会に譲りますが、どこまで作者が意図していたかは別として、この作品で描かれる依子という存在には、アイドルの本質の一端が表れているのではないか、と私は思います。その意味でも『三億円少女』は、アイドルが主演する作品として優れた作品であると思います。

*1:少女が依子であったとするならば、ではなぜまほろばに現れた際にすぐに自分が依子であるといわず(私の解釈ではこの段階ではまだ自分を孫娘であると偽る計画はまだ依子の中にはありません)、それを隠すかのようにふるまっていたのかという問題が生じますが、これは「少女が依子ではなく一希だった」場合にも言えることです。

*2:それは、純弥というもう一人のプレイヤーを加えた三角関係の中で考えられるべき問題です。