卒コンを見て あるいは「アイドルは宗教か」問題に関するメモ

去る12月15日、横浜アリーナで行われた、<モーニング娘。コンサートツアー2010秋 〜ライバル サバイバル〜 亀井絵里・ジュンジュン・リンリン卒業スペシャル>に行ってきました。自分はBerryz工房℃-uteをきっかけにハロプロにはまったクチであり、モーニング娘。に対してはあまり熱心なファンではないのですが、やはり感動したし、泣きそうになる瞬間が何度となくありました。モーニング娘。の熱心なファンでなくとも、少なくともハロー!プロジェクトに対して多少の思い入れがある人であれば、やはりあれを見れば何かしらの感動を覚えるだろうとも思います。というか、今回のコンサートは「感動」や「涙」というものが予定調和的に期待されていたのであり、その意味で一種の「儀式」でした。私たちファンは、今回の卒業コンサートのような儀式を通して、卒業(脱退)という辛い「現実」を受け止め、気持ちに整理をつけることができる。しかし、このような儀式を伴わない脱退というのも過去にはありましたし、その場合ファンはその現実を受け止めることが難しくなるでしょう。
アイドル(とそれをめぐる諸現象)を「宗教」に例えることは、さまざまなレベルでよく目にします。「アイドルは宗教である」と素朴に断定することには慎重にならなくてはなりませんが、実際、アイドル現象の諸要素を個別的に見ていけば、宗教的なものは確かに認められると思います。具体的には、「現場」をめぐる種々の事象、またヲタ芸などには、とくに宗教現象に特徴的な性質をみることができると思います。
ある現象に宗教的性質を見る場合、それは大きく分けて形式(制度)的な側面と、機能的な側面への分類ができると思います(アイドルの「現場」をめぐる諸要素は前者の性質が強いでしょう)。後者の、宗教の機能的側面については、宮台真司が「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にすること」と定義づけています*1。しかし、たとえば今回のようなメンバーの卒業や脱退という事態について言えば、少なくともそれとは相反する事態であるような気がします。卒業や脱退とは、ファンにはどうにもならない偶発的な出来事だからです。そして卒業や脱退、スキャンダルなど諸々の、ファンにとってはほとんど災厄に近い酷薄な「現実」は、そもそもがアイドル現象に内在的な偶発性といえるでしょう。今回の卒業コンサートを以上で述べてきたアイドル現象の宗教的性質という問題に引きつけて無理やり位置づけるならば、アイドルという宗教的現象(システム?)における、非宗教的事態(偶発性)を宗教の内部に回収するための(宗教性を維持するための)儀式だった、と言えるかもしれません。

*1:サブカルチャー神話解体序説――少女マンガ・音楽・宗教から見た若者たち」『増補 サブカルチャー神話解体――少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』54項、ちくま文庫、2007年。